集団への依存と日本的個人主義の罠

チューハイ飲んだ影響で漏れだしたツイートの補足

日本社会は主観的判断を根拠とした影響力が大きいと思うものに強く影響される性質がある…というのが日本独自かどうかはともかく、欧米は個人主義でーみたいなこと言うんじゃなくそういう性質を踏まえた上でどう振る舞うか考えたほうが良いのではないかと思うこれ140字に届かなかった

日本において所属コミュニティへの依存は大きくて、依存が大きいが故に個人の意識がコミュニティの空気に寄って行ったり、コミュニティにダメージを与えるような意見が言えなくなり、その結果「〜ムラ」などと言われる、外から見るととんでもないことを平然とやらかす組織が生まれたりするのだけど、これの対抗手段として欧米では個人主義が云々とかいうのはあまり有効とは思えず。というのはざっくり言えば日本は欧米とは文化が違うわけで。安易に隣の青い芝生を羨むのではなく、現状このような状態にあることを認識した上で対抗手段を考えていかにゃならんのじゃないか、という話。

日本的個人主義は自分の把握、理解できるかたちが世界のすべてという方向になりがちで、結果同じような把握ができる人で集まり結局個人主義でなく集団に依存する状態に帰結するという罠がある。このループから脱出する鍵は認識外の世界の存在を許容出来るかどうかにあるのではないか、と思うのであった

認識外の世界の存在を許容するというのはもちろん理解できるかたちに変換して把握するということではなく、理解不能だが存在はするという寛大な態度によって達成されるものである。そしてこれを相対化して再評価するプロセスを繰り返すことが集団の呪縛から抜け出す方法といえるかも知れない

このあたりは山本七平著「比較文化論の試み」「空気の研究」あたりで拾った概念だけども。個人主義的に振舞おうとすれば簡単に崩されない安定した基礎が必要となるものの、日本では行動の規範となるものの根拠が存在はすれどとても不安定*1なので、この基礎を自分の考え・認識こそが絶対であるというもので構築してしまう傾向がある。で、自分の考えにないものは自分が築いた安定した基礎を崩す存在ともなりうるわけなので、これをどうにかして排除しようということになり、排除するためにはそれなりの根拠が必要となり、それを同じ意見を言う他の人達に求めてしまい、結局集団に依存している構図に戻る。他方、同じ意見の他人に依存しない場合は、もはや孤立主義というか社会的動物としての性質が摩滅しているだけともいえる。
集団に依存しがちでその結果、集団が力を持つという社会の状態においてこれを解決する方法は2つのツイートで書いてるように、自分の考えや認識を出来るだけ多くのサンプルを比較することで修正していくという姿勢じゃないかなというあたりで。
ひとりで考えることには限界があり、同じ意見の集団が考えることにもまた限界があり。

*1:多くの人が言っている、そう思っているが根拠だったり